共生のデザイン 禅の発想が表現をひらくWOW Visual Design Conference
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http://www.w0w.co.jp/vd/ja/
田川欣哉(takram design engineering) × 高橋裕士(WOW)
WOW 15 Conference にお越し頂きありがとうございます。
昔から知っている面々から、最近であった方まで。
前もって感謝を伝えたい。
15年支えてくれた、会長、仙台/東京、WOWデザイナー
多くの取引先の皆様、ありがとうございます。
3部構成で濃密な時間です。
田川さんは同世代で、唯一心が許せる人?
本をきっかけとして..... 本の中身は話さないかもしれませんが。
5年くらい前、キャリアのお仕事で一緒になった。
田川さんはエリートとしてのキャリアがありますが、自分は........
「ビジュアルデザインの可能性」日本の美意識とこれからの可能性
WOWのデモリール
多岐にわたって、コマーシャルから、映像、デベロップメントまで。
色々な方々とコラボレーションしていて、
願いがいろいろ実現している。
田川:じつは同い年でして、76年うまれ、
お仕事をご一緒させて頂いてから、かなり頻繁に会ってます。
人前で一緒に話すのは、照れることもあります。
takram デザインエンジニアリングという会社で仕事をしています。
空間のインスタレーション、
テクノロジーとクリエイティビティーの二つを分けずに、
モノ作りにまっすぐ、対象から求められることから
常に心を開いていれたらうれしいと考えて活動しています。
モノ作りに興味があるひとから、物語に興味のあるひとから、
プログラミングに興味のある人までの集団です。
1. 生い立ち。
どういった人がどういったことを考えて、どういった決断をしているのか?
自分の会社の会議室。会議室から異常にデカイ。
お客様に対して最大限のスペースを。
田川:デザイン事務所の中で最大。
自分の実家は、刀鍛冶をやっていて、松山で9代目。
兄が跡を継いで、変わった環境で生まれ育った。
けっこうコンプレックスがあって、親父がモノ作りしている姿を
小さい頃から見ていて、自分の家が地図に書いてある。
悪いこともできないし、しつけも厳しかった。
いかに親から離れることばかり考えていた。
和風から離れたくて、海外のものばかり買い集めていた。
エアコンなんて無い寒い環境。
パンフレットを撮った時の写真。
工場で一番重要なのは、光。いかに自然光で作るか?
焼き入れの時だけ電灯。普段は自然光の明かりでしか仕事をしない。
なんで実感の話をしているのか???
ここから離れていっている自分がいるのだが、
最近は、そこに戻ってきている自分がある。
会社が落ち着いたのもあるが、
親父はすごい。代々受けつがれているもの。
なにかヒントがあるのではないかと思っている。
takram はどうかんがえますか?
田川:takramでも、たま鋼の作り方を研究した人がいた。
WOWのビジュアルデザインを見て、「ああ」と府に落ちた感があった。
隠してましたからね。
田川:なるほどと思ったと思います。
テクノロジーと表現の間のギリギリのところを
飛んでいこうと思っている。
刀も登場した時には超ハイテクだったと思う。
その行き着いた先に表現とか、
刀の意味を超えた、光の感じが「チクリ」ときた。
現場では鹿野さんとお仕事をしていた。
普段は高橋さんはしゃべられなかった。
局面局面、表現にたおれるかという
ジャッジの瞬間、WOWの中で遺伝しているように思っている。
後で聞いてみたいと思っているが、
最後の厳しさが素敵だなと思っている。
厳しくすると、お金的には非効率になる。
自分は親父の背中を見て育って、
経営者としての視点としてとらえれば、
作ってモノを売るというのを小さな頃から。
デパートのギャラリーで展示販売するのを見てきた。
WOWも作る会社としてやってきたい。
人の気持ちを動かすポイントは同じ。
親父は個性が強くて「君は何万石持っている」というぐらいの
古い人。
来る人によって器を変えたり、ざぶとんを変えたりする。
大切なお客様がわかる。
実家としては士農工商のプライドを引き継いでいる。
ファーストインプレッションは「印象が悪い」と言われる。
田川:最初、ビジュアルデザインの人を招いて、
チームを強化しようというときに、WOWさんに入ってもらい。
「すっごい、高橋さんがやる気がなさそうなんですけど大丈夫ですか?」
と言われた。
ご実家の話と共通しているなと思うのは、
オリジナルの作品を大事にしている。
それは、しかも、映像はメディアとして、コピーされて
出回っていくが、作り方としては、建築としては近くて、
オートクチュール的に、尺も決まっていて、
限定された時間の中にどれだけテンションを詰めていけるのか?
それに近くって。
意識しているのかわからないが、
実家で見ていた風景に、結構影響されているのではないかと、
映像制作の会社で、オリジナルに力が向いている会社は
それほどない。
自分的に特別なことをしているわけではない。
いろんなアイデアを最初に出す。
なかなか受け入れてもらえない。
最初は他に違うものとやらなければいけない。
仙台から出てきたことと、東京から世界に出ていかなければいけない。
今後もオリジナルは原点でもあるし、
それを好きだと言ってもらう人と一緒に仕事をしていき、
探っていきたい。
刀言葉。
真剣、相づちを打つ、そりが合わない。目貫通り。土壇場、付け焼き刃....
身から出た錆、切羽詰まる。抜き差しならない。
元の鞘に納まる。助太刀。太刀打ちできない。焼きを入れる。諸刃の剣。
日常的に使われる言葉で、面白い。
田川:あまり使わないのは「焼きを入れる」
作っている途中の話もある。
作っているプロセスを描写した言葉があるのが面白い。
物事に、居心地が良いことは日本人にとって重要。
見るもの、食べるもの、行動、人間関係、生き方、死に方にまで
美意識が働く人種。
善や悪などの道徳観の前に、その行為が美しいかどうか?
装飾というものは生活を美しく飾るもので、
無意識にデザインをやっている気がする。
生活に根ざしている。
実は今日、見てもらいたいなと思って、一振りもってきた。
自分にとっては身近なもの。
さやは木で出来ている。
田川:みなさん、身近で見たいな?と
興味のある方はカタログがあります。
カンファレンスを見たと言ってもらえれば、値引きも.....(笑
なんとなくではなく、美しいものなんだろうな?と。
非常に美しいものであり、非常に怖いものであり、
反比例なものとして、感じる。
デザインと芸術は別物だと思っていて。
素晴らしいデザインは後世に残る。
デザインは美しくあるベキ。日本人では当然なこと。
さらに昇華できることとが、時代を超えた感動を生み出す。
外部からの魅力的な誘惑。技術の進歩は、わずらわしいものととらえられる。
情報が無くてもシンプルに生活が営まれて続いてきた。
われわれはどうすれば良い?
日本人らしく高めることができる。
自らの力を高めるためには、
外部からではなく、自分の中の意欲を育てることが大切。
自分たちの祖先や歴史を感じることが何よりも重要。
そこになにかヒントがあるのではないか?
ひとふり記念に買ってもらえますか?
田川:こういう話はWOWの中でされますか?
いや、しません。
実感に刀を送って。。というと。。。。
どうどうとやっていることを伝えたい。
田川;コンピュータの発達でやれることが飛躍的に広がってくる。
いろんなところにディスプレイ、発光体が広がってくる。
高橋さんがおっしゃっているような、美的なことを考えると
できることが広がっているが、
10年前と比べると、だれでも簡単に作れるという
裾野は広がっている。
クリエーターもやれることが広がっているが、
それをフィールドとしつつも、
1000年の刀が変わらないのと同じ、開きがある。
相反するところで、一本、あっているような感覚がする。
どう一致しているのか?
自分も考えて、
親父に、なんで残っているのだ?と聞いた。
「わかんない」と言われた。生活に寄り添っているから?
江戸時代は平和だったので刀を抜かない侍もいた。
本物は残ると、世界的にあるが、
これからのデザインがどういう方向を考える時に、
周りを見合わすよりも、自分の中にある。
兄貴が10代目を継いでいるが、スピード感が違う。
日本の光来伝統に答えがあるのか?
日本人が美に敬意を払ってきたことに答えがありそう。
田川:なにか、WOWのクリエイションの中で、
これはイイけど、これはダメという共通のものがありそうだが、
今回の話とどう絡むのか?
スタッフ、正直、ものすごく、なんかこう、WOWのルールは無い気がする。
デザイナー達が「これはやるべきこと?」という感覚的なところで
つながっている気がする。
オリジナルを作るところで形成されている気がする。
若干、遊戯系の仕事はしないというルールはあるが、
作ることに対するルールは無い。
デザイナーがやるべきことを自然にできている。
田川:刀との関係でいくと、話の中で「光」の話になる。
光の扱い、光。
オリジナルの作品の中で、映像と物体だったり、映像と人だったり、
映像の外に出ている、平面の光と、
不自由さの関係があって、解き放っていくところを感じる。
「光」という言葉の切り口でいくと、
刀とか、思っていらっしゃることは?
良く鹿野と話しているのは、光の現象を考えている。
パソコンを通じて検討しているのだが、
motion texture という作品の時、人が干渉して
映像が慣性することの面白さを感じている。
レンダリングには固定されているが、
人を介して完成するのが日本的。
プロジェクタやテレビ、ハードに関しては気にしていない。
パッと見、ネタ落ち表現。
だれもが分かる表現。
小さい子供から高齢者まで分かる表現を意識している。
コマーシャルで表現をやっているのだが、
もっと多くの人にわかってもらいたい。
多くの意識をとらえると目をまわすぐらいの情報量だが、
自分の中に起こる感動は今も昔も変わらない。
感動を起こす要因は何時の時代もかわらない。
それも簡単で、複雑なものではなく、
誰の心にも伝わる純粋なもの。
あらゆる表現が、歴史がまだまだ浅く、新しい表現。
光の検証を表現しているという意味では、
建築、演劇、彫刻、多くのプロダクトが追い続けていることと
同じことをしている。
WOW は「光の現象」ということで携わっていきたい。
少しでも父がやっていることに、
日本の血を受け継いでやってきたい。
田川:WOWは皆さんから見ても先端のクリエイティブに見えている。
モノ過ぎ新しさと古いを超えて、その先の時の流れの長さとか
短さとか、堅さとか柔らかさとか、コントラストが好き。
今日の話も、結構、刀とか日本の伝統とか、
WOWのイメージから遠くあるが、どこかから見るとピッタリ来る。
刀の話を聞いた時に、納得感があった。
最初は謎の男であった、高橋さんのことがちょっと分かった感じがした。
究極の新しさと究極の古さがカッコいい。
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高平大輔・長内正雄(Tomorrow at daybreak project) × 於保浩介(WOW)
於保:デザイン論をどうこうという話をするよりも、
最近知ってもらいプロジェクトを紹介するパートです。
その中心のメンバーがこの二人。
長内さんはカメラマン。高平クンはたまたま、もともとWOW仙台のメンバーの一人。
今は震災後に自分が立ち上げたプライベートプロジェクト。
これをどうしても紹介したくて。。。
今回のカンファレンスに出るつもりは無かったのだが、
ぜひ30分くらいの時間をもらって、紹介したい。
理由をお話ししたい。
「ビジュアルデザインにできること」
普段大切にしていることは、
モノを作る時にあまり語りすぎない、饒舌すぎないことを気にしている。
説明すぎることによってイメージを限定しすぎる。
いろいろな解釈がでいるのにイメージを狭めてしまうことを
なるべく余白を作ったデザインを心がけている。
ビジュアルデザインの良さは余白を語らないで作ることができる。
ほんとうに見ていると涙がでてくるような感じ。
言葉では語り尽くせないものをいろいろ感じた。
これをぜひいろんな人に知ってもらいたいという思いがあった。
たくさんの人が集まる場で紹介できればとこの機会を作ってもらいました。
「共有する」
ビジュアルの機能として共有する一つのツールとしてなりうる、
ひとつの大きな機能がある。
知らないこととか、皆が共有するときに
ビジュアルデザインは良いツール。
言葉だけだと伝わらないことも、ビジュアルで完成系を
皆で共有し、ゴールを分かりやすく目指せる。
共有するようなビジュアルデザインを、
全く知らないプロジェクトを知らせる時に、
どういうプロジェクトかを説明する上で役立つ。
「蕪栗沼ふゆみずたんぼプロジェクト」
「朝日座」大正時代から続く映画館
情報は最小限、文字も無しで、十分感じられたり受け止めてもらえた。
説明された言葉で理解するよりも、自分で理解した方が沁みてくる。
最初は理解したかどうか分かりにくいが、なかなか抜けにくい。
ビジュアルデザインに関わるものとしては、
説明過多、情報過多の映像があふれているなかで、
見る人に感じるコトを残せるような余白を持って作っていきたい。
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枡野俊明(建功寺住職・日本造園設計) × 鹿野護(WOW)
「禅の美とデザイン」
鹿野:ビジュアルデザインという大きなテーマで、
どういったものを目指すべきか?
私一人では難しいと思って、枡野さんに聞きたいと思ってお呼びしました。
今回、きっかけとなった、なぜお呼びしたかというと、
デザインは社会の問題解決に個人の好奇心が結びついた時に
良いものが生まれる。
インスピレーションをその時の技術で最大限に実現している。
いろんなものに好奇心を広げている。
子供が生まれてから、日常の生活にもいろいろ広がってきた。
先日子供に「なんで暖かい飲み物は冷めてしまうの?」と言われたり。
西洋の人が東洋的な考え方に、
「共生のデザイン」を読みなさいと掲示をうけまして、
メモが多ければ多いほど、重要な本なのですが、
この本は、ほぼ8割メモを書くことになった。
今回のテーマは「禅の美とデザイン」
禅の発想からビジュアルデザインを発想する、
これからについて発想する。
活動を紹介して頂ければ。。。。。。。
枡野:あらためまして。横浜にある寺の18代目の住職をしておりまうs。
小さいころから自然や景色を眺めたり、
京都にいって庭を眺めたりするのが好きでした。
非常に大きなきっかけは、小学校5年の時、
京都に連れていったことがありました。
この時にはじめて京都のお寺の庭を見た。
あまりにも美しくて、言葉を失うような気持ちになった。
子供ながらに。
私が生まれ育った寺は、同じ禅寺なのに違うのだろう?
そこから庭に対する興味が生じた。
高校に入る頃、寺を立て直そうという話が持ち上がった。
その時に庭も作ることになった。
どんな風に庭はデザインすることになるのか?
横で見ているとものすごい面白いことになった。
斉藤勝雄氏
龍安寺、大仙院、カルチャーショック。
あまりにも美しさが違いすぎて。
建物も庭も美しすぎて動けなくなった。
様々な賞を受賞されているのですが。。。。。
海外、来週月曜からも海外。
年間13-4回、毎年20回くらい。
みんな直接依頼がくる。
依頼のある国のオーナーが徹底的に調べている。
先に全部作品を見られてから、依頼がくる。
交渉も含めて?
細かいことは弟子達がやってくれる、
行って、敷地に対する判断をする。
依頼をしてくれる人の気持ちが一番大事。
形は最後に結果的に残っていくものであって、
気持ちをデザインしていくこと。
はじめに最終
どういうライフスタイルなのか?
何を大事たという価値観を持っているのか?
もう一つは敷地の周辺を見て行くことによって、
敷地が訴えてくること。
「大地の心を読む」と言っている。
それらをどう一つのものに結びつけていくのか?
同じ場所でもオーナーが違うと違うものになる。
単純な方法論ではなく、
言葉で言い表せないものが形になる
ビジネスで忙しい人は、
どういう経験、体験をして、どう感じて欲しいのか?
仮に住宅であれば、自分自身に戻れる、
自分自身を見つめ直せるような空間と時間が作れるように。
たくさん著書をお持ちですが。。。。
海外で出されたものも。。。。。。
作品集関係も。
「共生のデザイン」去年でたもの。
アメリカ、10ランドスケープを紹介するもの。10作品紹介させて頂いた。
寒皮神社:神奈川県、相模の国一宮。
先代が日本の文化を伝えられるような空間を作りたい。
仏閣として大切のもの。
中に滝があって、「りゅうもんばく」滝を超えていくのは一つの関門。
新たな世界が開ける。
どんな人間でも一流の師につけば関門を突破できる。
神社なのだが。。。。。
神と仏が一つになったという説。
直心庵:建物も自分がデザインして、配置から、全てのデザインを担当した。
祇園寺:水戸の寺、接客する庭。
砂利に跡をつけている。砂跡という。禅寺は住職に入る時に、
全て掃き清める。「清められた」という意味。
それがだんだん庭に変わって、水のイメージに転換されていった。
もともとは「清める」という意味
和楽亭:窓枠は意識される?
窓枠であったり、軒と床で作られる枠で、一枚の絵を「いっぷくの絵」
Picture WIndows どういう構図を作っていくのか?
屋根の長さを調整していく。
実際こういう見え方をするかが、見える場所によって変わっていくのか?
view point 視点は全て設定する。
座って一点から見る場合もあるし、
歩いて移動する場合もある。
お隣の部屋から同じ庭を見る場合もある。
同じ庭でも違った見え方ができる。山水画と同じ。
プロジェクター投影を思い出してしまう。
ルポール麹町:金属ガラスを張っている。コケが載るような石がそぐわなくなっている。
現代の建築で枯山水をやってみたい。
有栖川テラス&レジデンス
視線で、景色をコントロールしている。
東急セルリアン:庭の部分、写真でいうと右側の部分に道路があり、
道路との高低差を、デザインでどう解決できるかを考え、
波が寄せて、室内空間に入るようなデザインにした。
駅に近い方は叩いたり磨いたりした石。
ロビーラウンジ、ホテルのラウンジも波が寄せてくるように、
450mm ほど下げている。
カナダ大使館:現代の空間の中に枯山水を復活した風に。
空中庭園として有名になった。カナダの優雅さを表現したくつくったもの。
有栖川テラス/レジデンス
柿渋を縫って作った。高級スペースにある床の間のようなもの。
床の間は、客と亭主。亭主は自分の伝えたい気持ちを床の間に集約する。
どういう言葉?どういう香り?どういう花?
お客様に応じて、床の間を変えるのが本来の床の間。
現場:工事をして引き渡すまで、作品づくりに携わる。
湧水園(ドイツ)全部自分で、現場の指示をする。
このドイツの時も二十日に一回くらい行っていた。
よほどじゃないと土日は寺をあけない生活を続けた。
鹿野:私の自己紹介を。... WOWで.
もともとCG, インタラクティブなもの。
最近ではインスタレーション、空間に投影するもの、
最近ではユーザインタフェース。仮想空間と実空間の界面のようなデザイン。
20世紀ボヤージュ、8年前の作品。
歴史でおきたいろんな出来事、創造的な出来事と破壊的な出来事を交互に表示していくもの。
年表ではなく、解釈して新しい歴史の見方で作った作品。
最近、インスタレーションという形で表現することがおおい。
光が波でもあり、粒子でもあるという存在であることを
うまく映像化できないか?光そのものがもっている不思議さや、現象を
作品として展示していたが、宮城県美術館で展示していたが、大破したもの。
作品作りで心がけているもの。
個とは何か:さまざま境界、動的平衡
自然と自分との差分に突き当たってくる。
自分の細胞は新陳代謝で変わってくる。
自分というものが「個」ではなく、流動的なもの。
表現の意味
映像と認識のはざまで
いつもいつも興味を持っている
芸術にしんびせいを求める。
表現は無駄なもの。
生物が生きて上で表現しなくても生きていける。
小鳥が美しく鳴くことは、繁殖につながっていく。
自分たちの表現をどう他者に見せていくのか?
表現や想像は、もっと生きる上で自然なものであるのか?
世界の脈絡
科学と民俗学
科学を考えないと思考できないことがある。
科学は徹底的に分解して最小単位まで、素粒子まで到達しているが、
そのれらがどのように営まれているのか、科学だけではわからない。
正反対の民俗学に興味を持っている。
鬼や悪という存在が、社会的にたまたまその時に悪だったりする、
相対的なもの。個もあるし表現もあるし世界がある。
ユーザインタフェースのデザインをしている時に、
非常に身体的で、動かした時の気持ちよさやフィードバック、関係性が作られている。
生活に密着すると、身体制だけでなく、
人間がどうやって営んでいくのか?民俗学に非常に感心を持っている。
最終的には仕事において大きな決断をする時の素材になっている。
叙景の限界:世界をどのように記述していくか?という表現。
山が高い、森が高い、波が高い、緑が濃い、
記述すればするほど、記述の対処うがk術しきれないほどの
奥行きと広がりを持つものあることを知る。
「呪いの時代」より。
今回テーマにしている「禅の美」。禅という美意識の中から、
短時間ではとても説明しきれないが、
「無常と幽玄」に関して。
「かたち」よりも「うつろい」
「うつろう」ことに美を見いだし「かたり」よりもそこに
禅とは何か:本来の自己と出会う。
子供のころは美しいものを見ると美しいと思う。
嫌なものを見るといやだと思う。
大人になると、他人の目が気になったり、社会的立場など、
いろんな事柄に心が縛られてしまっている。
何かが欲しいという執着心があると、本来の
子供の頃のような一点の曇りもないような心を失ってしまう
「心のメタボ」といっている。
メタボを無くしていくのが禅の目的としているところ。
禅は限りなく哲学なのだが、仏教としてなりたっている。
モノをとどめよ。美しいものをとどめようと思っても
絶対に無理。形あるものは風化していって、壊れてしまう。
明日も同じような日が来るような気がするかもしれないが、
今のこの瞬間は二度と戻ってこない。
少しづつ変化していっている。「無常」という、
「うつろいゆく」ことが美しいという視点。
漂う空気を大切にする。常でないこと、朽ちていくこと、
老いてかれていくことに美しさを見いだす。
木造の家をたてるとだんだん古くなっていくが、
柱に時代性がでてきたり、ツヤがでてきたり、
キズがでてきたり、やがてそれが朽ちて壊れていくが、
その変化の一瞬一瞬が美しい。
ペットボトルがただの形だと思うが、
見る側の姿勢による。
「旬」という言葉。
旬を楽しむのが最高の贅沢である。
今この瞬間が「旬」である。
日本料理は、7割が「旬」、名残と走り。
現在、過去、未来で、「旬」を強調している。
庭を作る際の「旬」は?
日本は、はっきりとした「旬」がある。
季節季節でしか味わえない季節をきちっと作ってあげる。
春には春の良さがある。
夏はつまらない。
冬の枯れた時。
秋の変わって行く時は美しい。
それぞれの良さが感じられる。
夏は木陰が良いとかを感じられるようにする。
1年の季節の移り変わりを考えながら庭を作る。
この時期は、ここに目がいくようにしようと考えて作る。
高速に映像が動く?
頭の中に描かれる。
水に風景が映るのではないかとか、
春はこう、冬はこう、自分がそこに居るように見えてくる。
日本の庭園は四季があるから成り立つ。
今自分が見ていられる幸せ、
そこに居る自分をどう感じられるか?
それが禅の庭の大切なところ。
西洋の庭との比較。
人間の強さが強調されている。
日本の庭園は自然そのものの形状をしている。
一つは、おおきな意味で、
自然は西洋の意味で、人間を支えていくという考えが
ヨーロッパでは強くある。
日本では自然と人間は同レベルであって、
お互いに支えあっている。
明治以前は「自然」という言葉は無かった。
昔は「じねん」と言っていた。
「幽玄」創造性、お客さんに想像してもらうことを重要視している。
語りすぎない。
「余白」想像させる部分に重きを置く。
大事なもの、本当に伝えたいことは「余白」に込める
100%見せない、隠れている部分を想像させる。
滝を100%見てしまうと「こういうものかと」なってしまう、
木の枝で7割くらいしか見えないと、想像する部分が無限に広がっていく。
全部見えてしまうと、終わりがある。
禅では限りなく、終わりの無いものが禅の修行。
終わりを見せない。そこに隠れることによって奥ゆかしさがでてきたり、
想像の世界がでてくる、墨絵でも同じ。
本当に伝えたいことは、文字にもならない。
自分で会得していくことしかない。言葉にならない。
みんなに考える場を作る。それが「余白」
ひとつの所作からひとつの所作に移るとき、心を込める。
庭や建築は、形の中で、抜けたものを「余白」という。
なんなんだろう?と考えるのが余韻。
演じる人も作る人も、そこに能力が求められる。
見る人にも能力が求められる。
そこが日本の芸術。
墨絵は墨で色を表現する。否定を持って肯定する。
「完全を超えた不完全の美」
不均整、簡素、枯高、自然、幽玄、脱欲、静寂
完全なる形には、作り手の形や人間性の入る余地がない。
それを壊して、この形の中に作り手の精神、命が
注ぎ込んで残っていくものを美しいという。
完全な形になってしまう。
西洋のティーカップ、これ以上できない時に完全な美と言うが、
人間性が注ぎ込めた時に心を込めることができる。
禅の中でも不均整。
禅の美とデザイン
を考えた時に、禅の思想は、初体験だった。
ちゃんと分かりやすい形で自分の中に入った時に、
非常にデザインにつながった。
日本の美意識、一つでは無いが、非常に大きな美意識の成立に
貢献している思想だと思った。
禅の美がデザインと密接に関わるのか、刺激していって欲しい。
国外の庭園作品国内の庭園作品身近なところでは、渋谷のセルリアンタワーとか、カナダ大使館とか。